中国の核、2035年までに3倍以上に 米国防省 …… 数を作っても破滅が早まるだけとは思わぬのが人の愚かさ……

AFPBBの記事である。


何故、核軍縮が求められてきたのかというと、広島と長崎、または米露での実戦レベルの突入核実験などによって生じた人体や環境への影響が、国家どころか、人類の存亡すら危ぶむほど危険な代物であることが判明したからだ。さらに、今回のロシアとウクライナの紛争がなければ、米露を始めとして、多くの国は核兵器をまだ減らす方向だったとされるほどに、核兵器は後の処分が難しく、廃棄もそうだが、保管にも金が掛かることが理由である。

平和なら、この戦略的大量破壊兵器と一応は位置づけられている最終兵器を沢山持っている必要など無いからである。
抑止力として考えても数は、必要最低限あれば良いのだ。

だが、それが今は狂い始めている。
ロシアとウクライナの紛争がそれを兵器としての価値として、誤認させる状況を生み出しているからだ。一方で現実に核抑止力は効果を現しているかというと全く表せていない。その辺りが、報道が逆効果を誘ったことによる悪い意味での成果だろう。


<使えない核、抑止も出来ぬ核>

実は、今回のロシアとウクライナの紛争は、ロシアにとって核が必ずしもロシア国民を守っていないことを示した一例である。いや、確かに抑止力として昨日はしているのかもしれない。外からロシア国内への攻撃は起きていないからだ。しかし、社会的にロシアは孤立しており、軍事力は低下している。核を使えば一発逆転の可能性は確かにあるが、破滅する可能性の方が高い。あくまで、世界を敵に回してでも一矢報いるための核に成り下がっているわけだ。

これは、核が平和の中では抑止力として機能するが、自分達の利益のために起こした戦争では、自国への攻撃を防ぐ意味での抑止力はあっても、戦争に短期間で勝利するための力は持たないことを意味している。あくまで、威嚇するためのハリボテか、自国も同じ兵器で反撃される可能性があると考えれば、自爆装置みたいなものだ。

これが、核必要論を唱える人から見れば、立派な兵器に見えると言う構図だ。実際には、兵器として自滅するようなものは、勝つための武器ではなく、メガンテとかバルスと唱えて一緒に滅びるようなものである。即ち、勝つこともその先豊かになることもない破滅のための道具なのだ。

それに頼らざる終えないということは、即ち抑止力という名がついたただの飾りである。

ただ、それに魅入られる人がいるということだ。特に、何かに怖れている人は、それが立派な武器にも盾にも見えるのだろう。


特に今の中国は、ロシアのそれもあって、それに加えて人口減少が始まっており、側には、インドなどの成長著しい国があるため、かなり気が張っていることに違いないはずだ。だが、核兵器を増やしたところで、結果的に後の時代において始末に困ったり、それを過信して、戦争を仕掛けてみたが、上手く行かないと言う流れになるかもしれない。

本来、武器に力を注ぐよりも、社会の発展に金を投じた方が良い。しかし、それが急激に崩壊しているのが中国に限らず、欧州や日本などロシアの周辺にある国々の現実である。

まあ、恐怖に染まらずに、現実を見極めることが大事である。



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