出光、青色有機EL性能で“世界最高レベル”実現。新発行方式で…… 印刷技術で”発行”したのかと思った。技術の進化と人の注意力低下。
AV Watchの記事である。
昨日はJDIも技術を発表しており、こちらは蒸着技術の改良で量産技術を確立したという記事だった。こっちは発行技術でも良いのかも知れない。
一方で、タイトルのそれは今日の午前のうちには直るだろうが、発行と発光を間違えているという単純なものである。
大手紙や報道でも最近は増えている変換まちがいである。コンピュータ入力とコンピュータによる自動校閲が増えた事で、国内で出回っている全ての記事を読めばきっと日に何件かは見つかるだろう。もっとも変換間違えだけではなく、打ち松貝(書き間違い)もコンピュータ時代では多くなり、それで編集通ったのか?というケースもある。
読み手も、印刷ベースでは無く画面越しで確認することが増え、間違いが昔に比べて減少していることもあって、手を抜いてしまうのかも知れない。これは、自動技術の弊害と言えるものだ。人よりコンピュータが賢くミスが減っているから、最終確認する人がそれを見抜く力を徐々に失っていくわけだ。そんなことはない?いやこれは現実としてある話だ。
<間違い探しは沢山見つけて評価された時にやる気になる>
校閲するに限ったことでは無く、人というのは役割に対して、自分がそれだけの役割を果たしていると実感出来なければ、徐々に手を抜くようになる。いや、手を抜くというのは語弊だろう。どちらかというと、変化が全くないものを永遠みていると疲れがむしろ溜まり、気力が低下するのだ。
信号もなく、ずっとまっすぐな道を時速60㎞で6時間走ると多分眠くなるだろう。ラジオなり音楽なりを聞いて紛らわせるか、時より車を止めて休憩でもしなければ。これは、連続で同じ状態を保つのが人には苦痛だからという側面から来るものだが、これと同じことが日々行っているルーチンワークでも見られるのだ。
特に重要なのは、充足した達成経験の数である。
人は、人に感謝されたり良い評価をされるとやる気になることが多い。一方で、その作業を毎日しているのに作業の成果が上がらず、達成経験がなければ……徐々にやる気は下がっていく。文字書きから頼まれる校閲作業は、とても大事な仕事だが、今はコンピュータの文字入力ソフトが入力補助してくれる上に、ワープロソフトにも校閲機能があるので、手書きの頃や、昔の拙い水準だったワープロソフトやワードプロセッサー時代に比べてミスは格段に少なくなっている。
その上、校閲する人自身もコンピュータに慣れてしまったため、音訓漢字、同音異義語などの判別が付かない人も増えてきている。早いと速いが使い分けられなくなったり、今回のような場合だと発酵ならば流石に気が付いただろうが発行、発光、発効辺りで問題ないと誤認する可能性が出てくるのだ。
その結果、間違いが読み飛ばされるようになる。
これでもしも、校閲した人を叱りでもして、見つけた時には評価の一つもないなら、それでも校閲で見つけるミスの数は減っている中で、校閲率は低下するようになる。ありがとうの一つでも言うと、校閲の精度が上がることもある。
まあ、これは技術の進化が人の注意力を低下させる結果を生むという極端な例であるが、システムへの依存度が上がる中で、些細な最終確認の仕事において、退屈と煩雑の2つに悩殺され始めていることに気が付いていく。
退屈とは文字通り、システムが逃した昔は5%だった見逃し率を大幅に改善した0.01%の間違いの最終チェックである。これは人にとってかけがえのない作業だが退屈である。
一方で煩雑というのは、そういう退屈が増えていけば、その人が受け持つ作業はそれだけに留まらなくなる。昔は校閲が校閲班で行われていて最後に上長の確認があってと何回もチェックしていたかも知れないが、今はコンピュータ⇒人で終わる程度になり、それも短時間で終わるとしたら、それ以外の別の仕事をいくつか受け持つようになる。そうすると……それ以外の仕事の方が大きなウェイトを持つようになることも間々ある。そうすると元々、作業による評価がそれほど無くて、ミスした(間違いを見逃した)ときだけ評価が落ちる「それ」のやる気は低下する。
そうやって、見逃しが増えていくという流れになる。
これに、この手のネットに掲載される文章は修正しやすいというのも影響するだろう。これが、ペーパーとして発行される新聞や、紙雑誌、書籍であれば間違いを後から修正するのは難しいため、ものすごい手間を掛けて文字の校正が何人もの手を掛けて行われるが、ネットの文書なら、SNSなどを通じて間違っているよと言われれば修正できるからだ。
ただ、最近は新聞や書籍でも以前より間違いが見つかるケースが増えているようなので、結局のところネットでの供給に慣れてくることでこれが増えて、許容され始めているのかもしれない。
