生活保護訴訟の請求棄却判決文にコピペ疑惑 3地裁で同じ誤字、NHK「受診料」…… この問題が理解出来ない国民が増えたのが不味い。
東京新聞の記事である。元々は 信濃毎日新聞(47NEWS)が取り上げていた記事であり、共同通信ネットワークを通じて広がっているようだ。
ネット上ではこれが問題とする人と、問題じゃない意味が分からないと言う人で分かれているが、日本の民主主義における立法府(国会)、行政府(内閣)、司法府(裁判所)の成り立ちの意味と、三審制の地方裁(簡裁・家裁を含む)、高裁、最高裁がある理由を考えるとこれは不味い。例え、同じ裁判で同じ人が申し立てていてもである。
何故不味いのかというと、文面をコピーしていると言うことは、判例のみで判断をしている可能性や、周りからの指示で既に定まった結果を示している恐れがあるからだ。
元々裁判というのは、どういう役割を持っているかというと、仲裁を法の下で行う役割をしている。民主主義の裁判は、法の番人と呼ばれる裁判官が、意見陳述や被告人や被害者または訴訟した相手と訴訟された側の主張を法に照らして判断するものであり、実は、争う法律が違うだけでも結果が変わることがあるし、事件や事故だと事件の背景などから酌量や猶予が行われることも、逆に厳罰になることもあるのが民主主義における裁判なのだ。即ち、法の番人である。
尚、三審制というのは最低でも上訴、上告、抗告などによって地裁、高裁、最高裁まで3回まで裁判官を変えて争うことが出来るから、三審制という。
何故これほど複雑な仕組みを日本の裁判制度というより、他の国でも民主国家なら上訴が出来るし、司法は分離しているわけだが、制度として作られているのかというと、元々の仕組みとしての法は、王の番人から始まったからだ。
今もローマ法王のように法の付く宗教上の皇王という立場もあるが、君主や君主の周りにいるもの、または閣僚や大臣など時の権力に近いものが、死刑と言えば死刑になる時代が日本でも戦前まであったのだ。大日本帝国時代まではあったのだ。だから、民衆として有権者としての一般的な理解も持ちつつ、法を遵守する様々な裁判員や裁判官がその裁判を実際に進める中で、双方の意見に基づく判決をするために、この制度が生まれたのだ。そして、それがあるからこそ例え結論が同じでも、コピーされているとあからさまに分かる内容で判決をしてはいけないのだ。
しかし、それをやっていることが少なくとも1つの事例であったと言うことは、他にもある可能性がある。
これが、何の問題に繋がるかというと、実はこれから裁判官や弁護士、検察官などを目指す人にとって常識だと思い込ませる効果があるのだ。その結果、徐々に民主主義の三審制の意味を失ったり、形は分かれた3権でもそれらが急激に接近し、飲まれる可能性が出てくるのだ。何故なら、自分の意志ではなく最初に決まった判決を引用する楽というのもをしてしまい。裁判に参加している人同士の中で言葉を絞り結論をだすことが減っていくからだ。面倒くさくてもそれが裁判を仕切る法の番人がする仕事だ。
最近弁護士も、殺人事件などで、簡単に精神鑑定を求めるようになり、裁判官もそれで争点が決まるような判決をするようになったことからも、分かる様に裁判の意味を失いつつある。要は、ただ裁判は形だけやって判例で結論を出す主義になってきているが、そういう部分も結局は、不味い方向に司法が向かっている証拠なのだろう。
日本は規範としての憲法や法律は3権が分かれた民主国家で立憲国家だが、国民も含めて、それが我々民衆がそれを守ることによって成り立っていることを既に忘れていると同時に、若い人だと教えられていない可能性すらあるのかもしれない。そうなると、民主主義は脆い。何より、既に形だけは民主主義の箱にあっても、中身は社会主義や共産主義の中国やロシアのようになり始めていることを示すのだから、それが不味いと分かった時には法の番人は既に王の番人で止めらない国になっているだろう。