流言に惑わされる世界で……犯人特定のリスクは、謝る勇気を批難して潰す心から生まれる。
朝日新聞社の記事である。デマ(流言/りゅうげん)に関する記事だ。先日の高速守谷パーキングエリア付近でのあおり暴行事件で、流言があった。私はそんな情報が出ていることすら知らなかったが、ネットでは犯人捜しがここでも行われていたようだ。
その結果、あるネット上の人物が、容疑者の記事をリツイートしていたことから、その人が暴行した容疑者と一緒に写真を撮っていた女性と誤認され、拡散されたというものだ。
当ブログでは、こういう負の情報は、確定情報(新聞社等の情報)が無ければ記事ネタにはしていないが、勢いというのは恐ろしい。確かに、誰よりも早く情報を得たいというのは分からなくも無いが、嘘を知って広めては今後は、その人が嘘付きになるからだ。
まあ、昔はそれだけで信じる人が少なかったというのも影響しているのだろう。
このBlogでも主にコンピュータ関連の仕様などを掲載する際に、誤りや誤字などを指摘されることがあり、記事ネタ自体に間違いがあることも過去には何度かあったが、それでも批難をされる方もいらっしゃる。ネットには嘘がないとか、○○の情報は正しいと皆が思い込んでしまう時代になり、書かれている情報の信憑性を考える人は少なくなった。
こういうBlogでも全て間違いなど無いと思ってしまう人がいる時代になったのだろう。逆に言えば、それがまとめサイト(今のまとめサイトの多くは基本的にBlog型のサービスである)などのサイトによって作られた信用の形なのかも知れない。
いや、そもそも大手の新聞社やテレビ局やそれらが監修を求める専門家でさえも、明らかに当初は間違った情報を出していたのに、後になって私も知らなかったとか、ああそんなんだと開き直っているケースはあるようだ。そうなると、個人もそうなっていくのかもしれない。即ち、新聞やテレビなどの品質が落ちる中で、ネットの方が信用出来ると思う人が増えているという背景もあるのだろう。
ただ、それに巻き込まれてしまう個人は堪ったもんじゃない。人物の尊厳(名誉)に関わる悪い話が流言として広まると、会社を解雇される可能性もある。巷で差別を受けるかも知れない。それが会社などを運営する人なら、会社の資金繰りや評判にまで影響を与えて業務が滞ることもある。悪人を懲らしめるためにやったはずの行動が、自分が悪人になることもあるという事実を知っているかどうかは大事なことだ。
<良いことなら広めても良い、悪い評判には慎重さが大事>
あの人が悪い人というのは、実は広めやすい情報である。そして、人が信じやすい情報だったりする。
何故悪い情報をそんなに信じやすいのか?
それは、騙される事ほど怖いことはないからだろう。良い情報、良い人というのは基本無害だ。むしろ、良いことをしてくれる人なら、高い評価を与える、賛辞することで終わる事柄であり、実はニュースとしての価値はそれほどない。あくまで、世間に明るい話題を振りまいて喜ばせる希望を高める、生産性の向上を広めたり、良いことをすればこういう注目を集めるから、良いことをしていきましょうという世間への示しが目的となる。
この場合は、多少評価する相手を間違っても、許される。基本的によい話であるため、同姓同名の別人でも、ネタにされると嬉しいぐらいの部分が出てくる。
それに対して、悪い話というのは、自分がそれに落ちる恐怖と、それに誑かされたり、巻き込まれるリスクという視点、さらに自分より下に転落していく人を見て、自分の自尊心を高い物に見せるという効果がある。実は良い情報と効果としては同じだが、よい情報は相手を押し上げ、自分も嬉しくなるという効果がある一方で、この場合は見かけ上の自分の立場を上げて相手を蔑むという、やっている感情がネガティブに働いているというだけのことだ。ただ、基本的にこちらは歓喜、やる気を引き起こすものではなく、恐怖や猜疑心、敵対心を煽ることで自尊心や協調を高めるという効果を生み出す。尚、見かけ上の自分の立場が上がると書いているが、実質のモチベーションは下がることが多い。これは、あの人もやっていたという見方が出来るようなり、あそこまで落ちないならやってもよいと思うケースもあるからだ。
この場合は、僅かでも間違いがあれば、相手を傷つけることになる。悪い話はよい話より伝播する。そして、仕事や学校、社会での誹謗中傷の率があがる。同姓同名というだけで、学校で虐められる可能性もあるだろうし、同名だけでももしかするとあだ名が悪いものになるかもしれない。
そこに落ち込むのを防ぐためには、法で戦うしかない。それには相当な時間と忍耐というコストが掛かる。
<実は景気や社会格差も影響する>
尚、この良い方と悪い方に対する拡散率は景況感や社会格差(貧富の差)も僅かながら影響するという話もある。
社会運動もそうなのだが、いわゆる景気が悪化したり、貧富差が広がると、人々は不満を溜めることになる。その際に、自分を貶めている相手、または社会で悪いことをしている人に対して、憎悪が強く表れやすい。自分が上手く行かない状況を、他に向ける訳だ。これは誰にでもある発散法だが、それを過度に快感だと感じるようになると、そこから抜け出せなくなることもある。差別的表現を日常でも使うとかそういう流れになることある。
景気が良い社会や格差が少ない社会では、皆がある程度心にゆとりを持っている。そのため、むしろ悪い状況を人を助けてあげようという機運が強まることも多い。即ち、自分の心のゆとりが、良いこと(良い方向)に考えを向ける原動力になる。そのため、積極的とは言わなくても、悪いことをした人に対して、怒りよりも、何故そうなったのかを考えたり、場合によっては手を差し伸べて更正させようという感情を持つ人が増える。
即ち、心のゆとりが減少している人が増えると、悪い情報でもよい方向になる(寛容な姿勢になる)ことを望む人が増え、社会が劣悪化し始めると、厳しさを求めるようになる。
今の日本は、言わずもがなである。
<犯人を誰より早く特定してもプラスの感情は生まれない>
では、犯人特定するのは良いことなのかというと、それが生業で且つ、それだけの捜査権を持っているのでないなら、やるのはとても危険な行動である。
そもそも、悪を挫くという場所は、日本のような立法府や司法府がある国家では、個人の裁量でやることではないからだ。例え名探偵であってもこれは出来ない。あれはフィクションである。
具体的に言えば、裁きは「法の下に平等」でなければいけない。私刑(リンチ)は法の下で言えば、した人間も、また裁かれる不法行為なのだ。
そして、リンチで心地よさを感じる人は、それを繰り返すほど度を踏み外すようになり悪化することも多い。だから、本人は、正しいと思っているその行動が、実はどんどんマイナスの底なし沼に沈むという現実を進行させる。その先にあるのは、気が付いたら逮捕かもしれない。
今度は、それをやった本人が、特定されて槍玉として報道される訳だ。そこに、プラスの感情はない。むしろ、最終的には自分が悪人として最底辺付近まで落ち込んでいく。だから、特定からは身を遠ざけた方がよい。あくまで、否定的(負)なニュースに見解を付けるなら、信憑性のあるニュースサイトの情報の範囲でやるか、足を洗った方がよいだろう。
これが、リスクである。
<正義の味方も、悪から見れば悪の枢軸>
というのはご存じだろうか?正義の味方(ヒーローやヒロイン)に憧れるのは誰しもあることだ。それは、社会の常識を育てるのに大事なことである。しかし、例えば、典型的なおとぎ話的な要素、光が正義として、闇が悪だとしよう。光の中で暮らすものが何故正義なのか考えると、それは人が光がなければ暮らせないからに過ぎない。ビタミンDの一部は太陽光(紫外線)を浴びなければ、生成されないし、真っ暗では目が見えない。一定の暗闇では、人の目はカラーでものを判別できない。即ち、視認性の低さが危険と隣り合わせの状況を生み出す。
即ち根源的に人は目に頼って生きていて、目が見えない状況を恐れるから闇は悪になりがちなのだ。目が生まれつき見えない人は、当たり前の世界でも、目の見える人にとって目が暗闇で見えなくなることは恐怖以外の何者でも無い。闇は我々が視覚に頼っているからこそ、恐怖を与えている。
しかし、もし音波や嗅覚、触覚など可視光線以外の何かを使える種なら、きっと闇でも生きていけるだろう。むしろ、長時間光を浴びることが皮膚炎などに繋がることもあるかもしれない。そうなると一転、光が悪になるわけだ。もし、こういう種族がいて、言葉が通じるとしよう。お互いが、捕食し合うこともないなら、ただ見た目がグロテスクかも知れないぐらいの差だとして、それを敵視するのは善か悪か?考えると面白い。
きっと、当初は恐ろしい見た目なら悪だと思うだろう。
我々の正義感は、独善的なものが多い。だから、我々は人々との共同社会を広げていく中で、その独善的な正義感を、ある程度、話し合いの中で共通認識としてまとめることにした。そして、その正義に照らして問題があるものを、全体の総意で処罰することにした。それが、立法(国会)と司法(裁判官、裁判員、弁護士制度)である。そして、悪事を犯すものを探すために、行政に捜査権を持つ組織(警察、公安等)を作ったのだ。
しかし、個人の正義はそうではない。正義感が司法に基づく正義に合致しないものなら、捜査され司法で裁かれることも有り得る。
即ち、正義の根源は司法にあるわけで、独善にはない。それを忘れてはいけない。
よい行い、こうあって欲しいと思うのは、誰にでもある。
問題は、それが必ずしも世間一般にある制度として正しいとは限らないことと、よくある自分常識と世間の常識が必ず一致するわけではないという点だ。
<常識ではない「教養」と「社会傾向」が非常識を生む>
ここでは、何度も書いてきたが最近、こういう問題が増えているのは、テレビ、雑誌などで常識クイズ、常識問題をやり過ぎた結果、我々が自分の常識が世間の常識だと思い込んでしまっていることも多分にあるだろう。特に、年齢が高いほどそういう思い込みは発生しやすい。しかし、世間で本当に絶対常識(絶対に破ってはいけない定め)と定められているのは、立法府において定義されていることと、各地の条例で定められていることに実は限られている。
後は、常識ではなく教養だったり、社会傾向、または安全のためのお願いに過ぎないのだ。そして、常識問題などで流れる常識は、大抵の場合、教養と社会傾向でしかない。下手をすると、法的または業界的には非常識なことが常識として報道され、10年後ぐらいにエスカレーターは、自動車のライトはどっち、間違いみたいな話になることもある。
社会傾向はそもそも常識ではない。それは、ただの傾向だ。一方で、教養はあくまで教養であり、知ればナレッジベース(予備知識)では広い見識を理解出来るようになるが、それを人に極度に求めると、教養ではなく強要(嫌がらせ)になることもある。過度な常識はやり過ぎると非常識を育てるのだ。
知らない人は非常識扱いされるため、ストレスが溜まる。ストレスが溜まると、今度は知らなかったという人が、別の人に別の常識問題で非常識を指摘する。即ち、人は他人の揚げ足ばかりに目を囚われ、自由な暮らしから遠のいて暮らし難くなる。その先に、過度な悪人捜しが生まれる。
そして、世間は常識を求めてナレッジベースを探し続ける。その代表が今インターネットになる。そこにある情報が、全て正しいと思いこむ人も出てくるだろう。しかし、そこにある情報は、常識も非常識も、ただの意見も沢山あり、例え多くの人が賛同していても、世間全般の人は、そこに参加していないケースの方が多く、世間の多数にはならないケースも多い。だいたい初動で負けていると、自分が反対の立場でも投稿しない人が多くなったり、特定の傾向が出やすいサービスでは、そういう人しか閲覧しないという問題がネットではよくある。即ち、常識とは限らない。
だから、ネットの情報は常に正反対だったり、多くの信用出来る情報源(生業としてニュースを提供するサービスから複数)から情報を集めたり、そういう情報源も二次情報なら、源流となる一次情報まで探すことが大事だ。
それらをやらないと、勘違いや正義感の加熱、劣等感の増幅に繋がるかも知れない。
<実名報道から距離を置く>
まあ、日本国だけで考えると、これを生み出している最大の要因は、テレビなどのマスコミだと私は思っている。人はテレビの真似をしたいのだ。
最近テレビをあまり見なくなってから、私はあまり世間の出来事に対して燃え上がることはなくなった。もちろんテレビのニュースも多少は見はするが(主に時間があれば昼前が中心、後はあまり見ない)、ニュース情報番組を見過ぎると間違いなく感情が燃え上がる人が多い。
テレビで日がな一日でも報道をみる機会があると、1日掛けて同じような話題がグルグル回り素晴らしくまくし立ててくれるからだ。犯人が憎いと……。すると、大きなニュースなら検索も増える。すると、さらにテレビも犯人を強く批難する。しかし、それが大きな罠だ。そもそも、犯人を憎んでも事件は解決しないし、同じような事件が減るとは限らない。本質は、犯人が何故その事件を起こしたのかを冷静に分析し、対処することである。憎めば、それが見せしめになって犯人がもう現れない世界になるとは言えない。
大事なのは、「罪を憎んで人を憎まず」である。酌量出来る理由があるかどうか、それを探ることが裁くことの本質だ。感情にまくし立てることではないし、誰々が犯人だと外野が特定することではないのだ。事件を解決するには、犯人を見つけるまでではなく、見つけてから量刑が決まるまでが、本当の意味で被害者にとって事件が解決するか、または納得出来るか、出来ないかを決めるのだ。
それが始まる前に、嘘が広まっては被害者家族がむしろ苦しむことや、感情論ばかりが高まって、事件の本質に対して十分な話が出ないうちに、世間の反応が消えていくことも有り得る。実際に、そういう事件は今や多く、今回も犯人が捕まったら、今度は流言の話の方が大きくなり……それを強く批難する人も現れているが……
ここで、反省を露わにする人に、誹謗中傷まで進む人が出てくれば、今度はその人が、被害者と和解出来た後なり、その最中に、誹謗中傷をする人(してきた人)に対して捜査を要請する被害届や私的裁判へと動くことも出来るケースがあるかもしれない。度が行き過ぎていると分かれば、法と照らして対処は出来るだろう。ただ、流言だけで誹謗中傷が決まる訳では無い。酌量出来る状況や、事実に照らした節度も、処罰や刑、慰謝料の基準になる。
即ち捕まえ裁くのは個人じゃなく、行政や司法であり、反省して酌量を求める人を極端に叩けば、それはそれで問題視できる可能性は出てくる。
偉そうなことを書いたが、孔子が示した、罪を憎んで人を憎まずの精神は、大切なことだ。私自身もニュースを見て怒りを感じることはある。
しかし、それが個人の誹謗中傷としてネットに拡散するのは好ましくないというのは、改めて感じることだ。
<心から謝る勇気を潰してはいけない>
事件を語る時に大事なのは、その人が行った罪だ。しかし、それが人にいく時代になった。そして、やっぱりその人を叩くのが今の社会だ。
本来なら、それに向かわせているのが、何なのかまで考える社会でなければけないが、どうもそこまで進まない。
私としては、こうなってしまっているのは、テレビの電子番組表に毎時どこかのチャンネルには表示される情報番組とクイズや常識番組だと思っている。
ドラマや音楽、映画などの番組が減ってこれらが増えたことで、ある意味での人々の違いや社会の違いを我々は、寛容に受け止める力を失っているのだろう。映画、ドラマ、音楽、アニメ何でもよいが、こういう創作ものは、フィクション(架空)だからこそ、それ(教養と常識の差)を無意識または意識して作り上げるのに十分な効果があるが、それが現実ばかりの話題になると、自分の小さな物差し自意識の常識でしかものをみられなくなるからだ。だから、映画レビューなどで、常識ではあり得ないから面白さがないというレビューも最近は増えている。自分の発想にはないある種の「非常識」だから面白いとは思わない。
そうやって、まんまとそれにのせられている人が増えている恐れは高い。それをさらに、情報番組のコメンテーターや専門家が、怒りを煽り、常識番組やクイズがあなたを常識人にすると思い込ませる。
そこに、自分の好きな話題で検索できるネットが輪を掛けて一方行へと押しやる。
その結果、正しくない行動を取る人は、過度に悪だと思われてしまい、自分は正義の番人になっていくのだろう。
そこに真の正義はないかもしれない。
だから、我々1人1人が意識的に考え、行動し、戒める必要がある。そして、人殺しなど重大事件ならともかくとして、真に心から反省する人には、手を差し伸べることも大事だ。謝ること、自分の間違いを正すことを自ら表明することほど勇気の必要な行動はない。自ら言えば自首になるため、それが裁きに繋がることもある。それでも覚悟して相手に前に出てくることは、とても勇気が必要なことだ。
それをもし誰もが否定してしまうと、間違いを犯した時に人は、決して反省しなく(出来なく)なる。
だって、どうやっても許されない、皆がお前は悪党だというならあなたは、自首(懺悔)するか?考えて見るとよいだろう。全員が全員許してくれるとか、被害者が許してくれるという甘い考えは持つべきではないが、自分からもう決してやらないと言える時、または行為を行ったときには、まだ考えが至らなかった中で許して欲しいと救いを請うときに、誰も許さないなら黙りで逃げたいと思うはずだ。
ある程度、情状がありチャンスがあるからこそ、正しい道へと人はやり直せる。そういう寛容さも必要だ。特に若い世代で、自ら許しを求めるなら、そういう姿勢も大事かも知れない。ただ、同じ酌量が何度も得られる訳では無い。
今は、好不況の分かれ目に入っているので、よりこういう問題は大きくなっていくかもしれない。
ただ、冤罪で犯人扱いされる人が増えるような社会はもちろんだが、謝罪する人、本当に後悔している人にまで、怒りが向くとか、強く批難される社会ではあってはいけない。それは、ただただ世の中をより猜疑心へと駆り立てていくだけである。だからこそ、報道なども被害者が感情的になっても、極度に感情には働き掛けず、事実を元に皆がどうするべきかを考えられる報道をするべきだろう。
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